2007年5月アーカイブ

信号を待つ間、僕は乗っていた車のドアを開け横断歩道まで歩いた。
横断歩道を動く視線が僕に集まる。

横断歩道の中央で立ち止まり、腕立て伏せを「7」回する。

それ以上でもそれ以下でもなく「7」回が正しい。
今と言う時の中では「7」と言う数字が相応しい。

偶然にも僕の背番号と同じだ。

僕が車へと戻るころに、信号は青になっていた。
アクセルを踏むと車が加速する。地球の表面を僕が移動する。

どんなに立派な本を読もうとも、核というか本質と呼ぼうか
決して変わることの無い芯がある。

折れたら回りを削ってまた先を尖らせればいい。鉛筆のように。
削れば何れ無くなってしまうようで怖い。

赤坂泰彦のミリオンナイツ
「曲はBeatlesでFree As A Bird」僕がリクエストした曲だ。
窓を開け外気を肺の奥まで行き渡らせ、ゆっくりと酸素を取り込む。
そしてゆっくりと息を吐き終えるころに目を開ければ、そこは全て予想通りの世界。

定理が変われば厳密な意味での証明も何の意味ももたない。
定理が変わらずとも厳密な意味での証明を必要としない世界では、証明に膨大な時間を費やすことは何の意味も持たない。

果たしてそうだろうか?

何かが間違っているような気がする。
間違っているような気がするが、間違っていると言うことがどういうことなのかすら解らない。

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ふとした時に思うことがある。

もしかすると自分がこの世で一番愛する女性は母なのではないかと。


正確な意味で僕がこの世に生まれた瞬間から、僕の存在を知っているし

僕が抱く感情の根源を遡れば、全てそこにたどり着く。


僕は決して模範的な息子ではなかった。
論理性の無い話には、論理を求め。確証の無い論理には、確証を求めた。

「母の日」という日にプレゼントをするのは「肩たたき券」以来の気がする。
母は飛びっきりの笑顔で「ありがとう」と言った。

幸運にも我が家は長生きの家系である。
1年に1度訪れる、この特別な日には確証も論理も何も必要なく
母への感謝が全てを包んでくれる。

「ありがとう。これからも良き母として長生きしてください。」

本当は大声で叫びたい。

曲芸師がクラブを投げ上げて落ちてくるまでの短い時間だっていい。

コップ一杯の水を飲み干す短い時間だっていい。


大声で叫びたい。


ベランダの柵から足だけ投げ出して、指笛を吹いたあの夏のように

糸電話が振動を伝えてくれたあの夏のように

返ってきた指笛は誰ともわからないけれども
何故かそれは、右脳の右上ほんの少し下のほうに留まっている。


彼らは知ってしまっていたからこそ自由に生きていたのか
それとも何も知らないからこそ拒絶していたのか

拒絶することが自我を認識する唯一の手段だったに違いない。

2011年9月

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